歴 史 年 表

第1章
治・大正・昭和期

「米屋」草創期に確立した“諸岡商法”と奉仕の実践

明治12年~

成田不動尊の縁と米屋の土台となる人生哲学

創業者 諸岡長蔵

 今をさかのぼる450年ほど昔、室町時代末期の永禄年間の頃、公津ケ原の薮の中から不動尊像が発見されたという。近郷の名主たちが不動尊像をしかるべき場所に運ぼうとしても、誰ひとり背負うことができなかったが、諸岡家の遠祖にあたる成田村の名主・諸岡三郎左衛門だけは楽々と背負うことができた。いたく心を打たれた三郎左衛門は、「不動尊の御心は、わが村・成田にあった」と、成田村の自宅の屋敷に遷したという伝承がある。これが成田山新勝寺のご本尊、不動明王像であった。
 米屋の創業者である諸岡長蔵は、このように成田不動尊と深い縁のある諸岡家の9代目として、明治12年1月6日に誕生した。
 長蔵は生まれつき体が弱く、少年期は常に病気との闘いだった。明治28年、「医術がだめなら、残るは神仏の加護にすがるほかはない」と16歳にして天理教の信仰に一条の光を見出す。そして「人を助けることが、すなわち自分を助けることである」という人生の指標を得た。その哲学は、その後の彼の人生を貫き、米屋の土台を支えていくこととなる。

創業者 諸岡長蔵

明治32年~

明治32年「米屋」創業 長蔵と母が初の羊羹試作

成田鉄道喫茶室「風俗画報臨時増刊 第274号 成田鉄道名勝誌」

 明治30年に錦糸町─成田間を鉄道が開通すると、成田山への参詣客は日を追って増え、参道界隈には土産物店や宿屋が急増した。
 その変貌を肌で感じた長蔵は、家屋・店舗を大改造し、明治32年4月21日に「米屋」を創業した。「米屋」という屋号は、代々農家のかたわら米穀・雑貨を商ってきた諸岡家の家業に由来する。
 20歳になったばかりの長蔵は、家長として家族9人の大世帯を背負い、生まれついての経営手腕を発揮することとなる。病弱ゆえに世の中の動きをただ静かに見つめざるを得ない環境が、経営者としての優れた先見性を育んだ。
 創業した年の暮れ、「成田詣でのお客様に喜んでもらえるお土産はないものか」と考えた長蔵と母なつは羊羹を試作。家庭の祝事用に一升瓶に詰めて保存してあった小豆5合と、祖父敬蔵の病気見舞いにいただいた砂糖を活用してつくったのが羊羹の最初である。
 試作品を店に置いたところ、「病人に食べさせたいから、柔らかく出来た羊羹がほしい」と客が訪れ、残らず買い求めて行った。火加減、煉り具合、小豆や栗の吟味、試食……。なつの創意工夫と日夜を問わない家族全員の協力で米屋羊羹の味は磨かれていった。

成田鉄道喫茶室「風俗画報臨時増刊 第274号 成田鉄道名勝誌」

人間関係を中心に据えた諸岡商法「高く買って安く売る」

「一切値引不仕候」の店是を掲げる

高く買うて安く売りなはれ

 その頃、成田山の参道では「上げ底、呼び売り、かけ売り」商法が横行し、粗悪品が乱売されていた。長蔵は開業早々から、これと真っ向から対立する営業方針を打ち出す。創業以来120年間「米屋」の信条として受け継がれていくこととなる“諸岡商法”である。「一切値引不仕候」という店是を大書きした看板を店頭に掲げた。
 「一切値引きせず」「値切る方お断り」という定価主義は、「売るも現金・仕入も現金」という店是で、長く米屋に継承されてきた伝統的商法用語のひとつである。
 長蔵は後年、70歳の時、知人に商売繁盛の秘訣を問われてこう答えている。
 「高く買って安く売る。これが私のやり方です。高く買えば仕入先、問屋は喜ぶ。安く売ればお客様は喜ぶ。自分を忘れて相手を喜ばせることばかり考えてきました。仕入先もお客様も、事業を営む者にとっては、元であり根であります。根を喜ばせることは、言い換えれば、根に肥料を十分おくようなもの。根が肥えれば枝先は自然に栄えるのは自然の理であります」
 長蔵は商法の中心に“人間関係”を据えていた。言い値で買い、値切ることをしない長蔵に対して、製造元も問屋も高値を付けることはしなかったという。経営戦略ではなく“人間関係”による成功が、諸岡商法によって起こされようとしていた。

「一切値引不仕候」の店是を掲げる

高く買うて安く売りなはれ

明治36年~

“諸岡商法”を貫き博覧会入賞で高まる知名度

成田栗羊羹製造業組合規約(大正4年)

成田栗羊羹同業組合の章

 しかし賑やかな門前町にあって、黙って商品を並べ、値引きもしない米屋の“諸岡商法”は、同業者から理解されず、客からも敬遠された。かくして米屋の店内はいつも閑散としていた。それでも長蔵は「私は世間を信用しています」と、毅然として己の進む道を決して曲げなかった。
 一方、“諸岡商法”の裏表のない清廉さが知られるにつれ、賛同者も集まるようになっていった。そしてついに、粗悪品の乱売に業を煮やした良心派の同業者たちが、門前町の信用を回復するために立ち上がり、明治36年2月17日に「羊羹同業組合」を設立。組合員は12名、長蔵は24歳だった。その翌月には、第5回内国勧業博覧会に自家製品を出品して入賞を果たす。羊羹づくりを始めてわずか4年で、水準を抜く品質にまで高めていたのである。
 「原価ぎりぎりで定価を設定し、良い商品を正当に静かに売る」という新奇なスタイルが客に認知され、信頼を得るようになるまで、数年間もの歳月が必要だった。
 そうした不遇の時代を経て、やがて大正時代になると米屋の躍進は勢いを増し、目の回る忙しさの中でも博覧会への出品を続け、羊羹の品質を一段と向上させている。そして、大正3年に大正博覧会で銅牌、翌4年に帝国製菓競進会で進歩一等賞、11年には平和博覧会で銀牌を受領。成田の外へ米屋の名を響かせたという意味で、この時の受賞は重みがあった。
 この間、大正4年3月に成田栗羊羹同業組合が再発足し、36歳の長蔵は組合長に就任。大正8年5月には長男が誕生した。「謙一」の名は、父長蔵の人生観を映し、謙虚な心で一から始めるという意味をもつ。これが、米屋2代目社長の諸岡謙一である。

成田栗羊羹製造業組合規約(大正4年)

成田栗羊羹同業組合の章

明治37年~明治39年

工場改築や配達車新調で急拡大する需要に対応

明治後期の店頭と配達車(右下)

羊羹配達用のオートバイ

 明治37年に勃発した日露戦争は、翌38年に終戦となった。その年の1月に召集された長蔵も、3月には召集解除で帰宅している。世の中が落ち着きを取り戻した頃、長蔵は店内の様子が変わり始めたことに気が付いた。成田の不正販売競争や上げ底の土産物から客が離れ、品質で物を選ぶ時代が始まろうとしていた。  店頭に置くや否や羊羹はすぐに売れてしまうため、明治38年11月7日、店の裏に羊羹製造工場を改築し、煉釜を増設した。それでも正月や節分の売れ行きには追いつかない。こうした盛況ぶりは成田中で注目の的となり、米屋羊羹を扱いたいという小売業者が殺到し、断るのに苦労するほどだった。
 徐々に増やしていった小売店へ配達するため、明治39年4月に羊羹配達用箱車を新調。当時、この車が成田を走り回る姿が、米屋の目覚ましい発展を象徴していた。

明治後期の店頭と配達車(右下)

羊羹配達用のオートバイ

明治40年~

生涯蓄財せず社会奉仕に生きることを決意

 明治40年には日露戦争後の大恐慌に見舞われるが、世の中の不景気をものともせず、米屋は順調に売上げを伸ばしていた。
 この年、28歳の長蔵は肺結核を再発。己の人生の処し方について長く深い自省の日が続き、信仰と家業に悩んだ末、生涯にわたって蓄財をせず、利益の大半を品質改良や公共福祉に使うという生き方の基本が、この時定まった。
 「長蔵の一生は社会奉仕に捧げられた」と言えるほど、彼は社会のために働くことを喜んだ。  『商業の目標は己れの利益を計るに非ずして、物資交流の仲介をなし、世を益するの道にして、己れの生きる道、また栄える道もその中にあり』(米屋信条の一節)
 長蔵は、商業は人と物をつなぐもので、人の益になることで自分を生かすものである、と語っている。

明治45年~

激動の時代も「己に薄く他に厚く」を実践

道普請の様子

廣池博士から贈られた湯呑茶碗

長蔵記著書

 商売の収益が着々と多くなるのに伴い、長蔵の奉仕も年々その支出を大きくしていく。中でも一生をかけた公共事業として、明治45年に33歳で始めた道路工事奉仕を晩年に至るまで間断なく続けている。道普請の企画、立案を行い、諸経費をすべて負担し、驚くべきことに身体の弱い長蔵が現場監督を務めるとともに自ら労働した。直接普請した道路だけでも市内100カ所以上、全長7,234メートルに及ぶ。
 また、廣池千九郎博士の研究に深く共鳴した長蔵は、大正3年から20年間にわたり、モラロジー(最高道徳)研究の財政援助をした。それは研究費にとどまらず、私生活の一切に及んでいる。この公私にわたる厚い援助により、廣池博士から「モラロジーの母」と称せられた。
 諸岡商法を頑固に守り抜いた激しさ、道普請を成し遂げる実行力、そしてモラロジーの完成に賭けた一途さ。そこから、心に決めたとき己の利を捨てる凛とした生き方がくっきりと浮かび上がる。こうして長蔵は激動の時代の中で、「己に薄く他に厚く」持てるすべてを奉仕活動に充ててきたのである。

道普請の様子

廣池博士から贈られた湯呑茶碗

長蔵記著書

大正6年~

大量生産時代を予見し工場近代化へ果敢に投資

羊羹工場熱源の多管式ボイラー建設

新設の二重釜での生産

トロッコを備えた大倉庫

 大正期に長蔵は続々と新技術、新設備を導入し、大量生産、工場近代化の手始めとなったのが大正6年夏の大釜設置である。もはや既成の設備では間に合わず、長蔵は自ら工夫して模型を作り、完成図を描いては業者に持ち込んでいる。その結果、米屋の設備は他に類を見ない斬新なものとなった。
 続いて大正9年、さらに大釜を増やして工場を増築。そして翌10年には、なんと汽車に使う多管式ボイラーを導入。これは当時の羊羹業界のみならず、食品業界全体でも画期的な試みであった。この多管式ボイラーは、翌年購入する二重釜と連動させるために、どうしても必要であった。二重釜とは、釜と釜の間にすき間をつくり、蒸気で羊羹を煉る釜のことで、焦げつきにくく、温度も安定する。
 また、大正14年には念願の大倉庫を建築している。羊羹の命である材料を、最適な状態で保管するためである。湿気防止、トロッコ設備を備えた大倉庫には、ほぼ1年分の小豆、寒天を収納できた。

羊羹工場熱源の多管式ボイラー建設

新設の二重釜での生産

トロッコを備えた大倉庫

激動の戦中戦後 新技術を携え全国展開への布石を打つ

大正10年~昭和12年

斬新な包装技術や環境を守る巨大煙突

多管式ボイラー煙突改造(大正10年)

昭和初期本店店頭での従業員

 昭和という激動の時代は、戦争の気配と金融恐慌で幕を開けた。昭和恐慌による失業者は全国で350万人ともいわれている。
 この時期も、長蔵は斬新な発想で次々と新技術を開発している。そのひとつが、羊羹包装工程のスピードアップであった。大正11年に長蔵が創案し、8年後の昭和5年に自動内包装、外包装機が完成。この二重包装機は当時類を見ない斬新なもので、米屋独自の設備である。
 同5年には羊羹の折箱および経木保管倉庫を建築。翌6年には工場附属ボイラー室に再び改良を加えている。これは、煤煙による環境汚染を恐れ、高い煙突が必要と判断したためである。さらに、煤煙を減らすため圧縮機を利用して煤煙掃除機を造り、環境の保護に努めた。高いビルなどなかった時代、人々ははるか遠くから見える高さ25メートルの巨大な煙突に驚いたという。
 続けて昭和8年に製造工場、9年に包装工場、 11年に経木折箱工場、12年に本店店舗と、矢継ぎ早に敷地の奥から順に工事を実施していった。

多管式ボイラー煙突改造(大正10年)

昭和初期本店店頭での従業員

昭和13年~

昭和13年、羊羹売上げ全国一を記録

昭和13年成田山開基一千年祭

 成田山には武運長久を祈願する参拝客が増え、昭和13年4 〜5月の成田山開基1000年祭には全国から約5万人もの信徒、講社が参集した。この時、米屋の従業員は80名で、近隣の人々や親戚を総動員して毎日徹夜で作業し、1日平均3万本、多い時は4万3,000本もの羊羹を生産。全国一の売上げを記録している。使用した砂糖は年間平均2万2,400俵で、新潟全県の消費量に匹敵するとまでいわれた。
 また同年、缶詰羊羹「栗羊羹」「星月夜」「黒糖羊羹」の3種を開発。戦地へ慰問品として送り、兵士達に喜ばれている。

昭和13年成田山開基一千年祭

昭和14年~昭和15年

戦時統制下、私財を投じて報恩会を設立

昭和15年「三日間休業」店頭の貼紙

 昭和14年9月、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦が勃発。不要不急の平和産業である菓子業界は、戦局拡大とともに冷遇されていった。
 長期化する戦争で物質の欠乏が目立ち、ついに昭和15年以降は砂糖が配給制となり、品切れ休業を繰り返し、米屋の維持すら危うくなった。だが、それでもなお、利益は当然のように社会還元に次々と回されていったのである。
 同年5月、長蔵は時の文部大臣の認可を受け、私財10万円を投入して「諸岡報恩会」という公益財団を設立。人の心がすさむ戦時下にあって、「今こそ社会奉仕の時である」という決意を固めたのであった。
 当時、報恩会で恒例化した主な事業は、道路の改修事業、火防対策、民生事業及び社会福祉事業に対する助け合い運動、出征軍人後援会への寄附、農繁期託児所の助成などであった。

昭和15年「三日間休業」店頭の貼紙

昭和16年~昭和18年

戦局拡大によりついに昭和19年営業停止

勝栗羊羹(缶詰)

 昭和16年12月8日に太平洋戦争が始まり、翌17年後半になると南方より輸入されていた砂糖も入らなくなった。昭和18年4月、米屋では残り少ない砂糖を使って羊羹と金花糖をつくり、戦争遺族に特別配給をしている。2カ月後の6月には、甘味嗜好品の類が贅沢品として全面禁止され、11月には純白糖の製造が禁止となった。
 昭和19年の元日のみ少量の販売をして、米屋は営業停止を余儀なくされた。
 本店工場のボイラー設備と経木折箱工場は軍部に接収され、煉餡用の大釜は成田近郊に駐屯する本土決戦部隊の炊事用に徴用された。

勝栗羊羹(缶詰)

昭和20年~昭和24年

戦後の食糧難の中 謙一に託された米屋復活

海苔の掛紙(仕入販売)

 昭和20年8月15日、敗戦。日本の食料不足は極限に達していた。
 同年12月29日に「米屋」を「株式会社米屋本店」(資本金19万5,000円)に改組し、66歳の長蔵は取締役社長に就任したが、経営全般の実務は専務である謙一に委ねた。
 米屋の存続を託された謙一は26歳。配給が途絶えたままの砂糖はもとより、小豆も燃料もなく、従業員もいない。まったくゼロからの出発であった。
 幸い、軍部に徴用された設備は返還されたものの、材料がないので羊羹はつくれない。そこで、昭和21年からトウモロコシや小麦を製粉する委託加工の仕事を始め、その後、農林省の指定を受けて本格的に製粉事業に取り掛かった。
 昭和22年10月2日、ようやく5年ぶりに砂糖が一般家庭に配給され、翌年秋には羊羹の「委託加工」が許可された。
 昭和24年正月、直火式、手煉りといった創業当時の手法で、ごく少量であったが米屋羊羹が復活。再開の噂はすぐに広まって店頭に客が集まり、注文も急増するが、手持ちの原料がないもどかしい日々が続いた。

海苔の掛紙(仕入販売)

昭和25年~昭和27年

営業力を強化し全国展開「日本の米屋羊羹」へ

全国銘産菓子復興展示即売会(日本橋三越)

 昭和25年は、大不況と好景気が入れ変わる変化の激しい年で、米屋にも大きな波が到来している。2月、71歳の長蔵が取締役社長の座を長男謙一に譲ったのである。30歳にして名実ともに「株式会社米屋本店」の取締役社長となった謙一の胸には、「成田土産の米屋羊羹」から「日本の米屋羊羹」への脱皮という目標があった。
 その第一歩として、社長就任直後の昭和25年3月「(財)鉄道弘済会品評会」に出品。見事に最優秀賞を獲得している。弘済会からは即座に納入の依頼があり、その後、全国の国鉄物資部にも納入を始め、全国展開の布石となった。
 営業部設置も、全国展開策の貴重な第一歩であった。納入が決まったばかりの鉄道弘済会に、毎日電車に乗って商品を運ぶのは営業部員の役目である。米屋は創業以来、菓子問屋を仲介しない小売り中心の営業方針であり、販売網を拡大するためには、営業部員の足を使ったこまめな小売店開拓が唯一の手段だった。
 同年11月には、東京の三越本店中央ホールで開催された、「全国銘産菓子復興展示即売会」に出品。食糧庁より砂糖と小豆の割り当てを受け、本物の味を追求した米屋羊羹は好評を博し、連日目覚ましい売れ行きを見せた。
 昭和27年4月に砂糖、小豆など主原料の統制が全面的に解除された。謙一夫妻に会長の長蔵も加わり、文字通り米屋一丸となって羊羹づくりを再開。朝4時から夜中まで皆が力を合わせて働いた。丁寧な皮剥き、さらしを施す製造法は昔のままであった。
 同年10月には、東京での販売拠点とすべく日本橋に営業所第1号を開設している。

全国銘産菓子復興展示即売会(日本橋三越)

昭和27年~昭和32年

日本初の「紙函流し」「羊羹充填機」を開発

紙函流しの新充填機による製造

天理店は当初「瑞穂堂」としてオープンした(昭和29年2月)

大阪梅田新道の大阪店

 急成長を遂げる一方、長蔵と謙一の間で、保守性と革新性、明治と昭和の時代感覚がしばしばぶつかり合うこともあった。しかし、長蔵は保守的なだけの人物ではなかった。昭和24年に、来るべき自由販売を見越して手がけた技術革新が、アルミ箔を使った全く新しい包装システム「アルミ箔紙函包装(またの名を「紙函流し」)」であった。
 それから3年後の昭和27年、今度は謙一が羊羹を紙函に直接流し込む充填機を日本で初めて完成させている。充填は1分間に5本から20本にスピードアップし、量も正確で、かつ衛生的であった。この充填機の開発は、その後の大量生産オートメーション化の基礎となるもので、米屋にとって一大転換点といえる。
 生産性を上げるうえで壁となっていたのは、熱い羊羹が冷めるまでにかかる時間である。朝充填した羊羹が、翌朝にならなければ包装に取りかかれない。謙一は、昭和30年、冷却装置の開発を決断した。紙函に羊羹を充填したら冷却トンネルを通す仕組みで、32年には冷却時間が2~3時間と一気に短縮され、「朝つくった羊羹を昼には包装できる」という、羊羹づくりの概念をくつがえすものであった。
 昭和30年には、東京都内の主要百貨店に進出するという第一の目的はほぼ達成していた。続く31年には、もう一つの全国展開策として、防衛庁への納入を果たしている。防衛庁共済組合の売店は北海道から九州まで点在しており、米屋の名を日本中に知らせる効果は絶大であった。
 またこの時期、昭和29年には米屋天理店、32年には大阪店を開設している。

紙函流しの新充填機による製造

天理店は当初「瑞穂堂」としてオープンした(昭和29年2月)

大阪梅田新道の大阪店

~昭和34年

三つ巴の羊羹合戦で急激に業績を伸ばす

元朝夜間照明

 戦後10年が過ぎ、昭和31年度の『経済白書』は“もはや戦後ではない”と日本経済が新しい成長段階を迎えたことを高らかに宣言した。
 その頃、東京を中心とする京浜一帯では、羊羹の需要拡大を目指して著名な羊羹メーカーが入り乱れ、“羊羹合戦”が繰り広げられた。まず、紀伊和歌山で300余年の伝統を誇る総本家駿河屋が口火を切り、遅れをとってはならじと宮内庁御用達の虎屋が起ち上がり、この両老舗に対して羊羹の大衆化では本家の米屋が進出。三つ巴の活況を呈することとなった。
 この羊羹合戦で、最高品質の羊羹を最も廉価で販売し得るノウハウを有する米屋は、驚異的に業績を伸ばした。
 また広告に力を入れていた謙一は、昭和34年頃、千葉県内の成田山までの主要道路沿いに1,120本の電柱広告を並べ、「この広告を辿っていけば成田の米屋に着く」というコンセプトで大胆な広告展開をしている。国鉄沿線、京成線沿線にも野立て看板を並べる戦略によって、米屋羊羹の知名度は上がり、売上げの伸びに拍車をかけた。

元朝夜間照明

昭和36年

長蔵が伝えた米屋の心と西向きの銅像

羊羹づくりを見守る長蔵

皇太子御成婚を祝う店頭

銅像除幕式で挨拶する長蔵

 長蔵は会社経営の第一線から退いていたが、昭和24年から84歳となる38年まで、しばしば工場を訪れては羊羹づくりをチェックしていた。
 「小豆の皮剥きをしっかりせよ。さらしは充分に。煉りは餡の性格を見ながら注意深くせよ」と語りかけるとき、そこには原料ひとつひとつの“物の冥利”を大切に引き出したいという愛情があった。一粒の小豆にも生まれた意味がある。小豆によってお客様に買っていただく羊羹をつくり、またそれによって自分たちが生活している。そうした物のありがたさ、尊さを折にふれ説いた。長蔵は羊羹製造を見守りながら、創業以来貫いてきた諸岡商法の心を社員に伝えていたのである。
 一方、中断していた「財団法人諸岡報恩会」が、念願叶って昭和33年に復活。以来、奨学金の支給など福祉を中心とする活動は、平成23年公益法人に移行して現在まで続いている。
 謙一がそんな父の業績を記念して銅像を制作しようとした時は、「銅像を建ててもらうような良い仕事はしていない。どうしても建てるなら、私が死んで100年後にしてくれ」と頑として拒否した。完成した銅像を倉庫に隠し、長蔵を説得する機会を伺ううちに2年が過ぎた。
 ようやく昭和36年になって、「出来上がったものは致し方ない。目立たぬ庭の隅にでも建てておけ」とつぶやくように言ったという。こうして、文化勲章受章者である朝倉文夫作「長蔵翁寿像」が中庭(現お不動様旧跡庭園)の一角に建てられた。「人はその勢いの盛んなものには畏敬の念を抱いてかしこまるが、勢いの衰えたものには顧みないのが世の常だ。私は、夕日に向かって、今日一日の恩恵に感謝の念を捧げたい」という長蔵の思いに沿って、西向きに建てられている。

羊羹づくりを見守る長蔵

皇太子御成婚を祝う店頭

銅像除幕式で挨拶する長蔵

大胆な設備投資と「缶入り水羊羹」の大成功

昭和36年~

画期的な技術を結集した大型オートメーション工場

昭和36年完成の本社工場全景

羊羹用紙缶詰め作業

 増え続ける需要に対応するため、謙一は新工場建築を決断。昭和36年6月15日、日本初の羊羹量産システム工場が完成した。規模は、鉄筋コンクリート造り地下1階、地上3階建て、延床面積7,430平方メートル。機器はすべて改良されて最新鋭となり、最高日産25万本の能力を有する名実ともに全国一の羊羹工場であった。
 旧工場との違いは、平面工場から立体工場になったことである。1階から2階へひな壇のような配置で機器が組込まれた。
 この年の社員は460人、資本金は2,000万円に増資されている。営業政策の面でも、昭和35年5月に仙台営業所と札幌営業所、翌36年に名古屋営業所を続けざまに開設。これら日本各地の営業所を拠点とした小売店開拓も本格化した。
 さらに昭和37年には、アルミ箔紙函づくりの自動生産化に成功。日産1万個の紙函と、それをカバーするボールケースを同時につくる優れた性能を持つ11台の自動製袋機は、食品業界で初となる開発であった。

昭和36年完成の本社工場全景

羊羹用紙缶詰め作業

昭和37年~

7年の歳月をかけて「缶入り水羊羹」誕生

水羊羹各種

 この新工場で缶入り水羊羹ラインが始動し、昭和37年4月に初の出荷販売を果たしている。実は「缶入り水羊羹の大量生産」というアイディアがひらめいたのは、7年も遡る昭和30年のことであった。
 門前町成田では、どうしても夏場の売れ行きが落ちる。300名に及ぶ社員を抱える米屋にとって、夏場に売れる商品を開発することが命題であった。当時どこの和菓子屋も夏場は水羊羹をつくっていたが、1~2日しか持たないものを大量につくる店などどこにもなかった。
 昭和30年から4年間、謙一と担当の技術者のみでひっそりと試作が繰り返され、34年に製品が完成。そして36年、新築したばかりの本社工場に巻き締め機が導入され、社員たちの1年間の技術研修の後、缶入り水羊羹ラインが始動して出荷を果たした。着想から量産販売スタートまで実に7年の歳月が費やされ、設備投資には1億円もの資金が投入された。
 満を持して画期的な新製品「缶入り水羊羹」を市場に送り出したが、顧客、小売店、百貨店の反応は「小さくて高い」というものであった。当時、煉羊羹が220グラム50円であったのに対して、缶入り水羊羹は100グラム50円と倍の値段で、その上「水っぽい」というクレームも相次いだ。
 しかし、平均所得が増え続けるにつれ割高感は薄れ、電気冷蔵庫はほぼ普及し、冷やすことで爽やかな食感が引き立ち、持ち運びの手軽さや1人で食べ切れるサイズも支持されるようになった。このような時代の流れに乗り、売上げは年を追って倍々に膨れ上がっていくこととなる。

水羊羹各種

昭和39年~昭和42年

業界初の広告戦略「サマーセール」キャンペーン

羊羮キャンペーンパレード

 独自の広告哲学を持つ謙一は、昭和39年4月15日から8月31日まで、和菓子業界で初といわれる画期的な広告戦略を展開した。女優の岩下志麻をシンボルキャラクターとした缶入り水羊羹キャンペーン「水ようかんサマーセール」である。新聞、雑誌、チラシ、パンフレットを広告媒体とし、水羊羹に付いたシールを集めて送れば、抽選で100名にトランジスタ・ラジオが当たるというもので、全国から4万613通という当時としては目を見張るほど多数の応募があった。
 キャンペーン中の販売数量は143万8,273缶に上り、キャンペーン後も売上げの上昇は止まらず、昭和42年頃には日産1万5千缶を超えている。日本が好景気に沸き、消費の多様化と高級化が進む中、“米屋の缶入り水羊羹”は大ヒット商品となった。
 製造部門では味の多様化を目指し、ストロベリー、小倉、メロンなどを開発。営業部門では、それらを進物用に箱入り価格(9缶入500円)とし、米屋の缶入り水羊羹は中元の進物用として揺るぎない地位を築き上げることとなる。

羊羮キャンペーンパレード

続々と新商品を開発し栗蒸し羊羹の量産にも成功

トランジスタラジオ応募シール

水ようかんとプリン

栗蒸し羊羹連続真空包装機

 水羊羹のほかにも、社員たちは工夫を重ねて新商品をつくり出していった。昭和40年には桜羊羹、汐味羊羹、月餅、最中を新発売。
 また、謙一の発案で昭和40年に缶入りの「米屋カスタードプリン」の開発に着手。缶詰技術は確立されていたものの、羊羹とは性質も製法もまるで違う。特にカラメルソースがプリンの上にかかっている状態を保つという大変な難問があったが、技術陣が課題を克服して41年に完成にこぎつけた。
 昭和40年には、さらに難問である「栗蒸し羊羹」の量産にも取り組み、せいろを入れた箱ごと蒸し上げる方法を開発した。出来上がった栗蒸し羊羹は、最新鋭の真空包装機によってパックされ、さらに殺菌される新たな設備が導入され、翌41年9月に発売された当時は日産500本であった。発売直後から売上げが上昇し、2年後には日産1万本に達するほど生産技術が進んでいる。

トランジスタラジオ応募シール

水ようかんとプリン

栗蒸し羊羹連続真空包装機

昭和42年~昭和43年

販売チャネルの変化を見越し菓子問屋ルートを導入

初代宣伝カー

水羊羹ギフト

米屋本店併設の味横丁

 昭和40年代前半は日本社会の好景気が続き、「消費は美徳」という風潮に覆われていた。米屋は創業以来、問屋を通さない小売店販売方針をとってきたが、各地の小売店から注文が相次ぎ、店舗を持った各営業所も需要をさばき切れない状態になっていた。そして翌41年暮れ、菓子問屋が来社し「米屋の商品をぜひ扱いたい」と申し出た。
 昭和42年、菓子問屋ルートの導入を決断した背景には、東京郊外に続々と進出し始めていたスーパーマーケットの存在があった。
 「このままスーパーマーケットが日本中に広がれば、もっと身近に米屋羊羹の味を楽しんでもらえる。」
 そう考え、賞味期間が長く品質が変化しない商品に限り、菓子問屋ルートによって全国へ送り出すこととなった。
 昭和42年は水羊羹が日産1万5,000缶、43年は栗蒸し羊羹が日産1万本、煉羊羹が日産平均10万本以上と記録されている。これらの生産量は、菓子問屋ルートを取り入れたことでさらに上昇し続けていく。翌43年には「水羊羹詰合 春風セット」が大ヒットするなど、米屋の商品力も菓子問屋との交渉を後押しした。

初代宣伝カー

水羊羹ギフト

米屋本店併設の味横丁

レストランやドライブインなど多角経営に乗り出す

米屋ドライブイン(昭和42年1月)

米屋石油(51号東和田)

米屋ボウリングセンターオープンポスター(現飯田町店の場所)

  同じ頃、謙一は事業の多角化に乗り出している。
 昭和41年、成田山表参道に洋菓子と洋風レストラン「シャンボール米屋」を初出店。ベテランの洋菓子職人が作る繊細な味わいが大評判となった。43年の「第17回全国菓子大博覧会洋菓子部門」では最高賞を射止め、高松宮殿下より名誉総裁賞を授与されている。
 昭和42年には「米屋ドライブイン」をオープンした。翌43年、成田山新本堂落慶御開帳期間中には、一団体で観光バス300余台が予約されるなど盛況を極めている。52年には規模を拡大して大改装。その後、58年正月には1日200台の観光バスがドライブインを利用し、来客数8,000人を超えるまでになっている。
 さらに、米屋ドライブインを開設した翌年の43年には「米屋給油所」をオープン。その後も、45年「米屋ボウリングセンター」、47年レストラン「ニューよねや」、53年「牛丼のうし若」、57年売店・飲食店「米屋サービスエリア」と、成田山周辺の商業立地を次々と先行開発していった。

米屋ドライブイン(昭和42年1月)

米屋石油(51号東和田)

米屋ボウリングセンターオープンポスター(現飯田町店の場所)

昭和44年~

昭和44年、91歳で米屋創業者の諸岡長蔵永眠

 問屋取引の開始、多角化戦略など新たな試みが着々と実行されていたこの時期、長蔵にはひとつの心残りがあった。
 それは、郷土の成田を象徴する不動明王のことである。遠祖三郎左衛門に背負われて、初めて成田に遷座されたのが我が屋敷内であった。そこで昭和41年、かつての聖域を永世にわたって成田村発展の跡を偲ぶ記念の地とするために、成田不動尊御遷座の跡碑を建立した。
 それから3年後の昭和44年10月8日、米屋創 業者の諸岡長蔵が永眠(享年91歳)。10月10日の密葬の朝は遺言に従い、新勝寺の前に車を停め、謙一夫妻が故人に代わって長い感謝の黙祷を捧げた。

昭和47年~昭和48年

先見の明に富む決断で「自動殺菌ライン」を導入

 巨額の設備投資が必要となる装置の開発・導入に際して、謙一が怯まず決断を下したのが缶入り水羊羹の自動殺菌ラインである。製造の最終工程で加熱殺菌を行うが、米屋では一般的なバッチ式殺菌機を用い、手作業で缶入り水羊羹をセットし、一定時間後に取り出していた。しかし殺菌に時間も人手もかかるため、5月〜7月の最盛期も製造個数を抑えるしかない状況だった。
 そこで考えられたのが、トンネル状の熱水槽の中に連続して缶入り水羊羹を流して自動殺菌する斬新なシステムである。缶の出入口に高さ7~8メートルの水塔(封鎖層)を作り、高低差の水圧を利用して缶入り水羊羹を通過させて殺菌する。この設備はゼロからの研究開発となり、開発費は少なく見積もっても1億円はかかる。
 当初はどこの機械設計会社からも断られ続けたが、ようやく大和(やまと)製衡株式会社が共同開発に乗り出し、完成したのは昭和47年であった。翌48年に自動殺菌ラインを導入。これにより日産平均6万個だった缶入り水羊羹の生産は10~12万個、最高で14万個まではね上がり、しかも作業要員は半分の25人となった。

◆ 自動殺菌ライン ◆

写真右上、左上:圧力維持のための水塔

写真左下:缶入り水羊羹連続自動殺菌機(入口)

写真右下:1分間300缶の水羊羹殺菌槽

画期的な新工場建設と「お菓子司の米屋」への飛躍

昭和49年

環境に優しい第二工場が完成

昭和49年完成の第二工場

オイルショック新聞記事

第二工場ボイラー

 続々と他社が缶入り水羊羹を発売し、競争は激化していったが、依然として中元時の売上げは他社を大きく引き離していた。しかし、夏場は本社工場がフル稼働する日が続き、町なかでの操業に問題も起こり始めた。騒音、夜中まで点る電気、排水などである。
 この頃、急激な経済成長を遂げる日本で、公害問題が次第にクローズアップされるようになっていた。日本各地で産業公害が多発し、公害病が発生するなど深刻な社会問題であった。昭和33年には「工場排水等の規制に関する法律」、37年には「ばい煙の排出の規制に関する法律」が制定され、42年には「公害対策基本法」が施行されている。
 そうした中、昭和47年に野毛平工業団地に約4万平方メートルの土地を確保し、新工場建設を決断。ただし千葉県企業庁から、公害対策はもちろんのこと、2年以内に操業開始という非常に厳しい条件が付けられた。
 この工場建設に際して謙一が強調したのは、「公害を出さない工場、きれいな水しか出さない工場」であった。
 昭和49年8月に第二工場が完成。敷地面積3万6,674平方メートル、排水処理施設面積1,498平方メートル、利用敷地率50パーセント以下というゆったりとした工場であった。
 第二工場の大きな特徴として、公害防止機能に重点を置いたことが挙げられる。その一つが、工場排水の浄化装置である。製餡排水はでんぷん質が多いため、浄化は困難とされていた。そこで取り入れたのが、「活性汚泥法」という微生物の働きを利用した自然浄化方式で、「無公害工場」として県の排水基準を達成している。
 もう一つが、不燃分の一酸化窒素を半分以下に減少させた“ボイラーの二次燃焼による大気汚染防止”である。
 この環境に優しい新工場で、一貫した和菓子生産ラインが稼動し始めた。

昭和49年完成の第二工場

オイルショック新聞記事

第二工場ボイラー

昭和57年~昭和62年

食べ切りサイズのニーズに適う新商品を

ミニ羊羹

 「水羊羹は米屋」のイメージが完全に定着し、昭和57年には缶入り水羊羹を1分間に225個生産できる高速充填巻締めラインを導入。シェア第1位のトップメーカーとして不動の地位を築いている。
 また同年、生餡の連続脱水装置が完成し、ミニ羊羹を発売。時代のニーズにマッチしてヒット商品となり、62年には第二工場にミニ羊羹の自動生産ラインを導入した。

ミニ羊羹

「羊羹の米屋」から「お菓子司の米屋」へ

謙一社長と京都柏庵店主の中井先生(昭和52年本社工場にて和菓子指導)

 「成田の米屋」を「日本の米屋」に育て上げ、海外輸出も果たした。かつての夢をほぼ叶えた謙一の次なる目標は、「羊羹の米屋」から「お菓子司の米屋」への飛躍である。
 第二工場はラインで量産できる羊羹、水羊羹、栗蒸し羊羹、本社工場では手づくり羊羹、特製・極製羊羹のほか、細々と焼き菓子、最中、手づくり和菓子、どら焼、上生などの和菓子がつくられていた。
 その和菓子づくりを本格化するための戦略として、原料取引先の紹介で京都の和菓子屋「柏庵」へ社員を派遣。このとき、謙一は全国から厳選した和菓子を社員に渡し、求める製品の方向性を示した。社員はそれを携えて京都へ行き、職人から製法や心構えを学びつつ試作品をつくる。それを持ち帰って謙一に報告すると、再度指示が出され、また京都へ。そうした往来が続けられた。
 昭和56年には「最中・焼き菓子係」を立ち上げ、第二工場で和菓子の製造をスタート。その時、最中の設備は本社工場から移転し、新たに包餡機、 連続オーブン、どら焼機を導入。1日1~2万個は優に製造できる設備が整えられた。
 どら焼については、謙一が全国から厳選した商品を見本として提示し、それに沿って商品開発が行われた。試作品ができると必ず謙一が試食し、その指示を受けて改良に取り掛かる。他にはないしっとりふんわりとした生地を完成させるため、オリジナルの設備改良など工務担当者の協力にも支えられ、謙一と社員が一丸となって、米屋の和菓子はどんどん磨かれていった。

謙一社長と京都柏庵店主の中井先生(昭和52年本社工場にて和菓子指導)

昭和57年~昭和62年

和洋菓子工場の稼働と高級和菓子ブランドの誕生

宗家最中、栗むすび、みごろも

 昭和59年には、和洋菓子事業を復活。閉鎖されていた本社工場を再構築し、同年10月に和洋菓子工場が完成した。それに先駆け、米屋では選りすぐりの社員を日本菓子専門学校へ入校させ、和菓子の名匠を指導者として招しょう聘へいしていた。卒業してから戻った社員は、厳しい和菓子職長の下で自らの技を磨き、活気がみなぎっていた。
 和洋菓子工場の基本方針は“手づくり”であり、商品は今日つくって今日食べる“生もの”であった。つくりたての新鮮さを味わってもらうため、 テナント店へ朝と午後、2便の自社配送を行った。春夏秋冬の季節感を持ち、祝い菓子、バースデーケーキ、焼き立てパンなどパーソナルな暮らしの場面に適したお菓子づくりを目指した。
 昭和63年、日々の暮らしを豊かに演出する創作和菓子「桂宗舟」ブランドが誕生した。
 次いで、高級志向に応える「長翁米屋」ブランドが誕生し、ブランドオープンの日までに大半の商品開発が間に合わず、ショーケースに並べることができたのは栗籠、どら焼の2種類だけという波乱のスタートであった。だが、思わぬことにそれが功を奏した。お客様が「米屋の勝負品は栗籠とどら焼だ」と受け止め、知名度を押し上げる結果となった。
 和菓子ブランドの構築に向け、謙一は的確に時代を読んで方向性を示し、米屋を導いてきた。社員は、「社長のために」と謙一を慕って邁進した。商品開発への要求は高かったが、それは味や品質の面に限られ、「急げ」とは一度も言わなかったという。

宗家最中、栗むすび、みごろも

平成元年

創業90周年記念式典で「なごみ」の理念発表

成田市制施行35周年記念新庁舎落成を祝い、「母と子のブロンズ像」寄贈

 平成元年10月1日には成田国際文化会館において創業90週年記念式典を開催し、永年勤続者表彰式、新企業理念「私たちの心の言葉」及び社章の発表会を行った。このとき発表されたのが、「心和む味の創造」「おいしい暮らしの演出」「人と人、心と心を結ぶ」「豊かな未来を広げる」という4つの意味を込めて「和」と「味」を重ね合わせた「なごみ」の理念である。
 さらに10月26日には、成田市市制35周年記念および新市庁舎落成を祝い、未来に向かう子供の成長を願う気持ちが込められた「母と子のブロンズ像」を寄贈している。

成田市制施行35周年記念新庁舎落成を祝い、「母と子のブロンズ像」寄贈

Column.包装紙

創業当時からの羊羹包装紙の変遷

明治35年~
栗ようかん

明治41年~
栗ようかん

大正8年~
栗ようかん

昭和5年~
栗ようかん

昭和13年~
ほし月夜

昭和15年~
勝栗羊羹(缶詰)

昭和17年~
栗ようかん

昭和17年~
栗羊かん(缶詰)

昭和17年~
栗ようかん

昭和23年~
黒ようかん

昭和25年~
栗ようかん

昭和26年~
栗羊羹

昭和36年~
白羊羮

昭和36年~
星月夜

昭和37年~
星月夜

昭和37年~
碾茶羊羹

昭和37年~
びわ羊羹

昭和39年~
十二単羊羹

昭和40年~
汐味羹

昭和40年~
栗ようかん

昭和40年~
本煉ようかん

昭和45年~
贔屓舟(ひきふね)5本詰

昭和47年~
煉羊羹

昭和49年~
白煉羊羹(百貨店)

昭和49年~
碾茶羊羹(百貨店)

昭和50年~
成田山光輪閣落成記念羊羹

昭和54年~
碾茶羊羹

昭和54年~
煉羊羹

昭和54年~
煉羊羹

昭和59年~
大塔羊羹3本詰

平成2年~
栗羊羹

平成3年~
桂宗舟 上桂栗羊羮

平成3年~
栗羹

平成5年~
匠の味 本練羊羮

平成5年~
御堂栗羊羹(カートン)

平成6年~
大納言

平成6年~
成田山お山祝い栗羊羹

全国各地で販売された羊羹包装紙

昭和32年~
星月夜(大阪店)

昭和35年~
北海道羊羹(札幌店)

昭和35年~
姫路城羊羹(㈱川上商店)

昭和35年~
東京みやげ星月夜(東京店)

昭和35年~
羽田空港羊羮

昭和36年~
東京湾観音羊羹

昭和36年~
星月夜(名古屋店)

昭和36年~
七夕羊羮(仙台店)

昭和40年~
箱根羊羮(㈱うさぎ)

昭和40年前~
銚子とっぱずれ羊羮(徳屋本店)

昭和40年~
モノレール羊羹(名古屋店)

昭和43年
国会議事堂羊羹

昭和~平成初期に発売したユニークな羊羹

昭和45年

ヨネパック

 1970年(昭和45)9月に若者をターゲットにヨネパックを発売。
 ひとくちタイプの先駆け羊羹で、味のコンセプトはあずきの粒が入った伝統のおぐら羊羹と、干しぶどうの粒が入った斬新なレーズン羊羹の2種。

昭和61年

ミニ羊羹 野菜(かぼちゃ・さつまいも・にんじん)

 1986年(昭和61)にミニ羊羹のシリーズで、野菜ようかん「かぼちゃ・さつまいも・にんじん」を発売。

平成元年

たべよーカン

 1989年(平成元年)3月にスティックタイプの羊羹を発売。
 1本が17㎝×2㎝のフィルム袋に、柔らかめの羊羹を充填した「たべよーカン」で、スティックを吸って食べたり、パンに塗っても食べられるという斬新的なもの。

平成元年 / 平成2年

スイート・カクテル&メッセ羊羹

 1989年(平成元年)に洋風でオシャレな羊羹「スイート・カクテル」を発売。
 大きさは、タテ6.5cm× ヨコ3cm× 奥行き2cmのひとくちタイプで、味はコーヒー、チーズ、ブルーベリー、ヨーグルトの4種類でオリゴ糖を使用。
 1990年(平成2年)には幕張メッセで「食と緑の博覧会」に当社が出展し、スイート・カクテルと同寸法の「メッセ羊羹」を発売した。銀色の地に未来を思わせるデザインで、味は小豆ようかんとブルーベリー、コーヒー、チーズの4種類。

第2章
成期

新生「米屋」からなごみの文化を発信

 平成に入ると、米屋の再構築に向けてCI(コーポレート・アイデンティティ)を導入し、和と味をつなぐ「なごみ」の文化の創造を企業理念とした。時代は平成不況に突入したが、急成長を遂げるコンビニにどら焼が採用されて取引が拡大。一方、地元密着を重視した直営店展開を推進した。
 平成11年、米屋は創業100周年を迎えた。景気後退が続く中、個食の焼き菓子に活路を見出し、平成14年にはなごみの米屋總本店のリボーンも果たす。米屋の新時代を開くため、経営構造改革を図るとともに、和菓子職人の技術向上、新しい千葉土産の開発、和菓子文化の発信などに注力。新しい「なごみの文化の創造」に向けて、意欲的な挑戦が続く。

米屋の再構築に向けた、CI導入と「 なごみ 」の文化

平成元年

水羊羹が低迷し、商品ブランド戦略へ

 平成に入る頃、日本経済は「いざなぎ景気」に迫る勢いで拡大し、米屋の和菓子は「作れば売れる」右肩上がりの黄金時代が続いていたが、ここにきて水羊羹の売上げが落ち込み、羊羹を主体とした事業展開は大きな節目を迎えることとなった。
 米屋は商品ブランド戦略を展開し、それをCI(コーポレート・アイデンティティ)導入へと発展させていくこととなる。

平成2年4月

CIの導入

4つのブランド

長翁米屋ブランド

桂總宗ブランド

米屋本店ブランド

米屋ブランド

 平成2年8月、「株式会社米屋本店」から「米屋株式会社」に社名変更。コーポレートマークも刷新し、「和」と「味」を重ね合わせた造形文字「なごみ」を登場させた。
 商品については「米屋本店」「米屋」「桂宗舟」「長翁米屋」の4ブランドで展開することとした。
 CI導入にあたり、企業理念も再整備している。米屋は、お菓子を通して心のふれあいを生み、文化を積み重ねていこうと、「なごみ」の文化を企業理念とした。

4つのブランド

長翁米屋ブランド

桂總宗ブランド

米屋本店ブランド

米屋ブランド

平成2年9月

第二工場に画期的な廃水処理施設を導入

以前の第二工場排水処理場

現在の第二工場排水処理場

 CI導入に前後して、第二工場における設備の整備も進んでいる。
 平成2年9月には新廃水処理施設を導入した。変則型の活性汚泥処理システムを取り入れた新たな排水設備を考案。処理能力は同じままで、平面の面積は2分の1に縮小。ランニングコストは大幅に削減された。

以前の第二工場排水処理場

現在の第二工場排水処理場

平成不況の中で活路を開く

平成4年

平成4年から苦難の減量経営時代に突入

昔羊羹(小豆、抹茶)

 平成4年から平成9年まで、米屋は苦難の減量経営時代が続くこととなる。
 商品アイテム削減などによる徹底した原価引下げ、間接部門を中心とした人員合理化策等、苦しい経営となった。
 しかし、こうした減量経営を徹底しながらも、カップ水ようかんの製造設備を漸次増強するなど、必要な設備投資は実行している。  新商品の開発にも意欲的に取り組み、平成5年には「昔羊羹」の発売がNHKニュースで放映された。シャリシャリとした懐かしい食感が味わえると話題を呼んだ昔羊羹は、翌6年5月の「全国菓子大博覧会」で名誉総裁賞を受賞している。

昔羊羹(小豆、抹茶)

平成7年

新たな潮流への対応

どら焼ライン

甘さひかえめ缶入り水羊羹

 平成期の注目すべき流れのひとつが、どら焼に代表される個食の和菓子が食品市場で人気となったことである。もうひとつ、百貨店やスーパーが長引く平成不況で伸び悩む中、コンビニが急成長を遂げたことが挙げられる。
 米屋でどら焼を作り始めたのは昭和56年頃のことである。当初は、手焼きで1日2,000個ほど作り、翌57年に製造ラインを導入して量産を開始。そして平成7年にコンビニ採用を受けて大型機械を導入し、生産数量は1時間1,800個から2,400個に増加した。
 平成9年には「甘さひかえめ缶入り水羊羹」を開発し、米屋日本橋センタービルにおいて大々的な展示発表会を開催した。消費者ニーズの変化でスッキリとした甘さが要望されるようになったため、糖度42度から36度の水羊羹を開発した。

どら焼ライン

甘さひかえめ缶入り水羊羹

平成7年

なごみの理念を実践した「米屋観光センター」

米屋観光センター外観

 平成7年11月、「コミュニケーションの場を創造する」という理念のもと、米屋ドライブインを移転し、成田山境内から徒歩5、6分のところに「米屋観光センター」を新築オープンした。
 3,700平方メートルの敷地に、大型バス30台を収容できる大駐車場を整備。建物はゆったりとなごめる空間づくりを念頭に設計し、内部には成田の精進料理を提供する和室とレストラン、売店があり、団体席は700席設けた。

米屋観光センター外観

平成10年

諸岡謙一社長が会長に、諸岡孝昭専務が社長に就任

 景気後退が続いていた平成10年、JR成田駅における正月三が日の降車客数は前年を約1万3,000人も下回ったが、5月の成田山開基1060年祭記念事業、東京湾アクアライン開通により成田市内は大いに賑わった。
 この年、米屋では大きな動きがあった。5月の役員人事で諸岡謙一社長(当時79歳)が会長に、孝昭専務が社長に、邦彦、靖彦両常務が専務に昇任。経営陣も新たな節目を迎えている。

平成10年

地元密着を重視した直営第1号店がオープン

なごみの米屋勝田台店

なごみの米屋勝田台店オープニングチラシ

 平成10年10月、直営第1号店として「なごみの米屋勝田台店」がオープンした。
 なごみの米屋直営店のコンセプトは、商売の基本である小売の原点に立ち返り、地元顧客に密着した日常的に利用できる店舗づくりをすることである。そこで、初の試みとしてモニター制度を採用。店舗近隣者20人のモニターから、米屋商品の試食評価、他社菓子店の利用状況、勝田台店への希望など、店舗づくりに直結する情報を収集した。
 10月14日のプレオープン(近隣顧客の特別ご招待会)当日、一番乗りの来店客、モニター代表者、工事関係者、諸岡孝昭社長によるテープカットでオープニングの時を迎えた。朝7時頃からお客様が詰めかけ、一時は600人もの列ができるほど盛況であった。

なごみの米屋勝田台店

なごみの米屋勝田台店オープニングチラシ

平成11年

創業100周年を迎えた平成11年、どら焼に活路を見出す

 平成11年、米屋は創業100周年という大きな節目の年を迎えた。
 流通事業部では1月に東京港区のニューピアホールにおいて、菓子問屋、コンビニ、スーパーの担当者を招待して「米屋創業100周年商品発表会」を開催。「羊羹の素材・羊羹のおしゃれな食べ方・商品の紹介」などのプレゼンテーションを行った。
 この時期は市場の縮小により、とくに付加価値の高い進物品は厳しい状況に置かれていた。その中で消費者の心を捉え、毎年売上げを伸ばしていたのは、どら焼をはじめとする個食の焼き菓子である。
 大手コンビニからも焼き菓子の販売要請があったため、諸岡孝昭社長が自ら大手菓子問屋の経営者、量販店及びコンビニのバイヤーなどを訪ね、どら焼の将来性について聴き取り調査をした。その結果、流通市場にはどら焼の有力専門メーカーがなく、また首都圏に工場を持つことが米屋の強みとなって将来的に有望商品に育つだろうと判断。どら焼ライン増設に踏み切った。

平成11年

順調なペースで直営店を出店

八千代緑が丘店

若松町店

 なごみの米屋直営店は、続々と出店を続けた。平成11年に「八千代緑が丘店」(2号店)、「四街道大日店」の2店舗、12年に「八街店」、13年に「若松町店」「おゆみ野店」「富里店」「うすい店」の4店舗、米屋總本店が完成した14年には「しいの木台店」、15年には「桜台店」、17年に「柏大山台店」、18年に13店舗目の「柏光ヶ丘店」がオープンした。

八千代緑が丘店

若松町店

平成14年

「なごみの米屋總本店」リボーン事業

なごみの米屋總本店竣工祝賀会
(平成14年10月20日)

なごみの米屋總本店特別招待会テープカット
(平成14年10月24日)

總本店入口の暖簾

成田市生涯学習市民ギャラリー

成田羊羹資料館

お不動様旧跡庭園

 平成14年に、米屋總本店のリボーンに取り組んだ。
 振り返ると、成田山表参道界隈への来街客は平成3、4年頃から下降に転じ、その後急落傾向が続いて回復の兆しがみられなかった。そうした中、打開策を求める機運が高まり、「セットバック事業」(参道の拡幅と電線の地中埋設化による町並み整備事業)という形で街おこしが動き始めた。
 米屋は、この事業を単に「セットバックを伴った店舗の建て替え」で終わらせず、リボーン=新しく生まれ変わるための新店舗づくりと位置づけた。また、なごみの米屋總本店を各直営店の母店として、その機能を強化することも重要な目的であった。
 こうして平成14年10月、新築完成した「なごみの米屋總本店」がオープンした。それに伴い、成田山参詣客と地域住民の「なごみの空間創出」のために取り組んだ主な事業には、次のものがある。

◦成田羊羹資料館のオープン

創業の精神、羊羹の歴史、羊羹の道具や原料を展示。
成田山参拝記念に気軽に立ち寄り、羊羹への理解を深められる施設。

◦成田市生涯学習市民ギャラリー(ギャラリーなごみ)の開放

市民が趣味の作品などを無料で展示発表できるスペース。

◦お菓子教室の開催

米屋の菓子職人による季節のお菓子や上生菓子の教室を毎週開催。

◦お不動様旧跡庭園・不動の大井戸の公開

なごみの米屋總本店竣工祝賀会
(平成14年10月20日)

なごみの米屋總本店特別招待会テープカット
(平成14年10月24日)

總本店入口の暖簾

成田市生涯学習市民ギャラリー

成田羊羹資料館

お不動様旧跡庭園

平成15年

日持ちする大福の大量生産を実現

大福製造ライン

 平成15年に第二工場で蒸しまんじゅう、大福の生産を開始した。翌16年には、本格的な生産設備を導入している。
 蒸しまんじゅう生産のきっかけは、コンビニからの強い要望である。
 また大福生産については、売上げを伸ばすどら焼に続いて、大福をコンビニ流通に乗せたいと考えた諸岡孝昭社長からの要請があった。1年がかりで日持ちする大福の商品化にこぎつけ、大量生産を実現。

大福製造ライン

平成19年

直営店展開の見直し

旧飯田町店(平成18年)

飯田町店オープン(平成19年4月27日)

飯田町店ギャラリー

 なごみの米屋直営店は、平成10年の第1号店出店以来、18年までに計13店舗を順調に出店してきたが以後は、既存店舗リニューアル、積極的な新商品投入、販売員の接客サービス向上研修などに取り組むこととなった。
 ほかに、新たな試みとしてカフェ併設モデル事業をスタートし、平成19年4月、直営店「なごみの米屋飯田町店」に、こだわりの紅茶と和洋スイーツを提供するカフェをオープンした。さらに、店舗の一部を貸しスペース(「なごみギャラリー飯田町」及び「多目的スペース」)とし、地域住民にコミュニティの場を提供した。

旧飯田町店(平成18年)

飯田町店オープン(平成19年4月27日)

飯田町店ギャラリー

創業110周年、技術向上と社会貢献を貫く

平成19年

「選・和菓子職」「伝統和菓子職」に社員が認定

 「選・和菓子職(優秀和菓子職)」は、全国約3,000社が加盟する和菓子製造の業界団体「全国和菓子協会」が、全国菓子研究団体と共同で認定している。
 平成19年から28年にかけて米屋の社員4名が、和菓子職人にとって最高級の称号とされる「選・和菓子職(優秀和菓子職)」の栄誉を手にした。
 平成19年の第1回には全国から141名が参加し、2次審査に進んだ48名の中から、星野宏紀を含む19名が認定。20年の第2回には全国から96名が参加し、2次審査に進んだ50名の中から、新垣瞳を含む17名が認定。21年の第3回には全国から84名が参加し、2次審査に進んだ42名の中から、庄田美保を含む13名が認定された。さらに28年の第9回では、全国から約80名が参加し、渋谷将吾を含む10名が認定された。
 また、平成26年と29年には、「選・和菓子職」の一部門である「伝統和菓子職」に白鳥正俊(ぴーなっつ最中)と山崎博司(どら焼)が認定された。
 これは、伝統的な和菓子製造技術の向上および伝承の功績が認められたものである。

平成21年

創業110周年感謝祭イベント

なごみの米屋總本店110周年感謝祭

創業110周年奉納羊羹式典

 平成21年初頭、より質の高い経営への転換を強力に進め、創業110周年の節目を意義ある年とする意欲的な経営基本方針が打ち出された。個食の和洋菓子の開発や、千葉県の特産物である栗、さつま芋、ピーナッツを戦略素材とした個性ある商品開発、さらに創業110周年記念事業の実施などが盛り込まれている。
 同年4月21日、米屋は創業110周年を迎えた。当日は平成水守り不動尊へ、お不動様旧跡庭園内に湧く「不動の大井戸」から汲み上げた名水を用いて作られた、特大羊羹奉納(10kg×3本)の式典が、成田山新勝寺の旭照愿法務課長によって法楽が執り行われた。奉納された羊羹は、ご利益を分かち合っていただけるようにと、110周年にちなんで110名のお客様に無料でふるまわれた。

なごみの米屋總本店110周年感謝祭

創業110周年奉納羊羹式典

平成22年

埼玉県より「渋沢栄一賞」を受賞

上田清司埼玉県知事より渋沢栄一賞受賞

 平成22年2月5日、「第8回渋沢栄一賞」において米屋が企業表彰の栄誉に輝いた。この賞は、近代日本の産業経済の礎を築き、社会事業にも尽力した埼玉県出身の実業家・渋沢栄一を顕彰するために設けられたものである。
 米屋が業界に先駆けて新商品、新技術を開発し、和菓子業界の発展に貢献してきたこと、また市内高校生に対する奨学金の給付、福祉施設への支援など、長年の社会貢献活動が評価されて企業としては初めての受賞となった。

上田清司埼玉県知事より渋沢栄一賞受賞

羊羹コレクションストーリー

 銀座三越8階 催し物会場において、「第1回羊羹コレクションin銀座三越」が開催された。日本全国の羊羹(名店・老舗)が多数出店し、新作の羊羹や、新しいスタイルの羊羹に挑戦、テーマのメイプルシロップを使用した新感覚の羊羹を各社が考案し、銀座三越限定で販売した。
 来場者に羊羹のことをもっと知っていただきたいと、イベント会場で羊羹にまつわる展示やトークショーを開催し、羊羹を使ったお菓子教室も行われ、参加者は紅葉をかたどった飾りで、思い思いのお菓子を作って楽しんだ。催事場の一画には各社の羊羹の食べ比べや、羊羹とシャンパンのマリアージュが味わえる喫茶コーナーも設置した。
 実行委員会としては、初めて試みる羊羹だけの企画イベントで、お客様を呼べるのかと心配もあったが、予想以上の来場者があり大盛況のうちに終了することができた。
 終了後、実行委員会のメンバーは反省会と来年に向けての打合せを行った。第1回は東京で開催したので次回は北海道か大阪、九州で開催したいとの意見が多く、今回と同様に百貨店で開催できるか、各百貨店の情報収集を行ったところ、大阪の三越伊勢丹に、銀座三越の盛況ぶりが伝わっており、開催のオファーが届いたため、第2回はJR大阪三越伊勢丹で開催した。
 以後、第7回まで国内の百貨店で羊羹コレクションを開催し、全国の羊羹だけのイベントが話題となり多くのお客様が来店された。
 平成28年から経済産業省の「JAPANブランド育成支援事業」の補助金が受けられることになり、海外で展示会を実施する運びとなったので、第8回はパリで開催、第9回はシンガポールで開催してどちらも2,000名以上のお客様が来場し、大変好評であった。

in 銀座三越
平成22(2010)年11月3日~8日

銀座三越で開催の様子

なごみの米屋商品「GINZAの街角」

なごみの米屋によるお菓子教室風景

お菓子教室で参加者が作ったお菓子

in JR大阪三越伊勢丹
平成23(2011)年11月16日~21日

米屋の販売コーナー

JR大阪三越伊勢丹前に貼られたポスター

なごみの米屋商品「1/6栗羊羹」

in 丸井今井札幌本店
平成24(2012)年5月23日~28日

なごみの米屋商品「1/6羊羹」

なごみの米屋商品「くちあそび」

羊羹トークショー 諸岡社長とアンゼン・パックス尾関勇社長

in JR大阪三越伊勢丹
平成24(2012)年11月21日~26日

3社羊羹詰合せの「コレクションBOX」

なごみの米屋商品「チョコ蒸しヨーカン」

なごみの米屋商品「トマトDE羊羹6 個入」

in 福岡岩田屋本店
平成25(2013)年6月6日~10日

なごみの米屋商品「トマトDE羊羹3個入」

なごみの米屋商品「彩ころ」

テレビ放映の取材現場

in 新宿伊勢丹
平成26(2014)年6月11日~17日

新宿伊勢丹で開催の様子

なごみの米屋商品ショーケース

in 丸井今井札幌本店
平成27(2015)年9月22日~27日

米屋羊羹ペーパーの展示

3社羊羹詰合せの「コレクションBOX」

なごみの米屋商品「虹の架け橋」

なごみの米屋商品「和衣(わごろも)」

in パリ
平成28(2016)年3月17日~20日

パリ展示会場のモニュメント

なごみの米屋ディスプレイ

実演に集まる観客

お茶会風景

羊羹コレクション会場のお客様

in シンガポール
平成29(2017)年10月26日~29日

なごみの米屋展示品「虹の架け橋」

入口にディスプレイされた各社の羊羹

会場内の様子

デモンストレーションで試食を配る諸岡良和社長

新宿伊勢丹「カステラ&ヨーカンコレクション」
平成25(2013)年9月11日~17日

各社の羊羹とコラボしたシベリア(中央は米屋栗羊羹と菓匠禄兵衛のコラボ商品)

青山ファーマーズマーケット
平成29(2017)年11月25日~26日

各社羊羹展示のディスプレイ

なごみの米屋コーナー

羊羹セミナー会場で(なごみの米屋栗蒸し羊羹とドリンク)

グローバルな視点で、進化する「なごみ」

平成22年

アメリカの中学生が和菓子作りを体験

サンプルーノ パークサイド中学生菓子教室

 なごみの空間創出のため平成14年に始まったお菓子教室は、団体客の積極的な受入れや県の食育事業への参画など、和菓子作り体験を通して日本の伝統文化を若い世代や海外まで伝える場へと発展している。
 成田市とアメリカ・サンブルーノ市の姉妹都市提携20周年を迎えた平成22年7月、交流事業で来日したパークサイド中学生14名と関係者4名がお菓子教室に参加した。
 その翌年からは、成田市の姉妹都市の学生や成田国際高校の姉妹校の学生が毎年参加している。

サンプルーノ パークサイド中学生菓子教室

平成22年

米屋観光センターの改装と「食品衛生優良施設」表彰

米屋観光センター室内庭園1

米屋観光センター室内庭園2

米屋観光センター室内庭園3

 成田山参詣客に、米屋観光センターをより一層快適に利用していただくため、平成22年と23年の2度にわたり改装工事を行った。
 平成22年には、食堂スペースの一部が、ゆったりと休憩できる室内庭園へと生まれ変わっている。
 石庭をあしらったフロアには、野だて傘と長いすを配置し、落ち着いた寛ぎの空間を演出した。
 翌23年には、店内のバリアフリー化、エレベーターの設置、座敷宴会場から団体貸切テーブル席への改装、和式トイレから洋式トイレへの全面改装などを行い、9月3日にリニューアルオープンした。
 この間、平成22年11月12日に、千葉県食品衛生協会から「食品衛生優良施設」として千葉県知事表彰を受けている。これは、米屋観光センターのオープン以来の努力が認められたものであり、衛生管理の一層の充実と、利用客のさらなる信頼獲得へ向けて、大きな励みとなった。

米屋観光センター室内庭園1

米屋観光センター室内庭園2

米屋観光センター室内庭園3

平成23年

東日本大震災の被災地へ救援物資を送る

被災地に救援物資をトラックで輸送

 平成23年3月11日、東日本大震災が発生。被災地では多くの方々が犠牲となり、また家屋を失い、ライフラインを絶たれ、食料や生活用品が極端に不足した中で避難生活を強いられていた。米屋では、一日も早く平穏な生活を取り戻せるよう願い、自社製品を救援物資として被災地に送るため迅速に動いた。
 成田山新勝寺が被災地の末寺や講社・ご信徒へのお見舞い訪問を行う際、ひとくち羊羹300本、なごみの郷(羊羹・カップかのこ詰合せ)40枚を託した。また、4月13日には、農林水産省の緊急物資輸送専用トラック3台に和楽の里羊羹15,750本を積み、甚大な被害を受けた東北地方3県へ送った。
 これらの被災地支援に対し、成田山新勝寺、農林水産大臣、被害者生活支援特別対策本部長・国務大臣より感謝状を賜っている。

被災地に救援物資をトラックで輸送

平成23年

きんつば生産設備の移設と刷新

きんつばライン

きんつば

 平成23年6月、きんつばの生産設備をお菓子工房から第二工場へ移設した。
 8月には新規設備も導入して生産体制を整え、平成23年度下期に130万個、24年度通期で380万個を生産。年々販売数量が増加したため、29年11月には新規設備への入れ換えに踏み切り、生産量が年間500万個を超える商品に成長している。

きんつばライン

きんつば

平成25年~平成29年

なごみの米屋直営店が続々オープン

イオン幕張新都心店

ペリエ千葉エキナカ店

流山おおたかの森S・C店

 直営店展開を推進する中、平成25年から29年にかけて、なごみの米屋が続々とオープンしている。
 平成25年12月20日、日本最大級のショッピングセンターであるイオン幕張新都心のグランドモール内に、「イオン幕張新都心店」が出店。
 平成27年3月7日、JR成田駅東口のスカイタウン成田1階に、「JR成田駅前店」がオープン。10席のカフェスペースを併設し、店内の60インチ画面では商品画像や成田市の名所・イベントなどを放映。
 販売、カフェ、情報発信機能を兼ね備えたが、現在はカフェスペースを無くしている。
 平成28年6月10日、直営店30店舗目の出店となる「イオンタウンユーカリが丘店」が出店。同年11月20日には、JR千葉駅の改札内商業施設に「ペリエ千葉エキナカ店」がオープンした。ぴーなっつ最中などの千葉土産や、塩豆大福を中心に陳列している。
 平成29年6月1日、つくばエクスプレスと東武線の流山おおたかの森駅のショッピングセンターに、「流山おおたかの森S・C店」が出店した。

イオン幕張新都心店

ペリエ千葉エキナカ店

流山おおたかの森S・C店

平成27年

諸岡靖彦社長がCEOに、諸岡良和常務が社長に就任

諸岡靖彦CEO就任挨拶

諸岡良和社長就任挨拶

 平成27年5月、諸岡靖彦社長がCEO(最高経営責任者)に、諸岡良和常務が代表取締役社長に就任した。5月29日の就任パーティで、CEO挨拶に続き、新社長が「経営方針」を発表。米屋の新たな門出となる新体制が動き始めた。
 新社長が掲げた経営方針は、
○お客様に喜んで頂く
○従業員とその家族の幸せを実現する
○取引先を大切にする
○地域貢献をする
○株主の期待に応える
という5項目である。それに向けて、経営者自らが率先垂範し、方針と戦略を明確に示し、積極的に現場へ出向いて意見を聞くことなどを社員に約束。
 また、仕事環境とともに私生活の充実を図ること、社員の正しい思考・行動、組織力、情報共有を重視することなどを表明した。

諸岡靖彦CEO就任挨拶

諸岡良和社長就任挨拶

食品防御のため監視カメラを導入

監視カメラ

 取引先から食品防御(フードディフェンス)強化への要求が強まり、取引条件の一角を占めるようになったことから、平成27年9月に監視カメラを導入した。工場への出入り口や工場内の主要生産場所に設置。トラブル発生時の原因究明や対策強化に貢献している。

監視カメラ

ベトナムから技能実習生を受け入れ

第1期ベトナム実習生16名の歓迎会

 技能実習制度は、国際貢献と国際協力のため、3年間で技術・技能・知識を実習活動から習得し、母国の経済発展や産業振興の担い手となる人材を育成する目的で行われている。米屋ではベトナム技能実習生16人を受け入れ、平成27年11月2日から第二工場で技能実習を開始した。3年間にわたり米屋の一員として働きつつ高い技術を習得するとともに、社員と日々の交流を通して互いの文化に理解を深めることが期待される。
 その後も、平成28年に8名、29年に8名、30年に8名を受け入れ、継続的に受け入れを計画している。

第1期ベトナム実習生16名の歓迎会

平成28年

成田羊羹資料館の入館者が30万人を突破

成田羊羹資料館30万人目来館者セレモニー

 平成14年に開館した成田羊羹資料館は、年2回の企画展などに工夫を凝らし、幅広い年齢層に親しまれている。
 入館者は、平成15年10月3日に5万人、17年4月6日に10万人、19年9月8日に15万人に達し、21年8月20日には記念すべき20万人目の来館者を迎えた。20万人目となった家族連れがくす玉を割り、諸岡靖彦社長が記念品の羊羹を贈った。
 さらに、25年2月23日には25万人、28年3月9日には30万人を達成し、恒例となったセレモニーが行われた。

成田羊羹資料館30万人目来館者セレモニー

平成29年

「梨ゼリー」「不動の大井戸最中」「千葉めぐり」が相次いで受賞

千葉めぐり2種8個詰

梨ゼリー7個詰

 平成29年2月9日、第57回全国推奨観光土産品審査会の菓子部門で、「千葉めぐり2種8個詰」が最高位の厚生労働大臣賞を受賞した。企画性や工夫など商品の特色が優れていること、郷土色が豊かであること、デザインが優れていること、素材性が優れていること、安全・安心であることなどが高く評価され、全国から出品された383点の頂点に輝いた。
 また、第27回全国菓子大博覧会が4月21日から5月14日まで三重県伊勢市で開催され、58万4千人もの来場者が訪れた。全国各地から出品した商品の審査会があり、なごみの米屋の「梨ゼリー7個詰」が厚生労働大臣賞、「不動の大井戸最中8個詰」が金菓賞を受賞した。

千葉めぐり2種8個詰

梨ゼリー7個詰

台湾の高校生がお菓子作りを体験

どら焼づくりに挑戦

米屋観光センターで台湾高校生が菓子づくり体験

 日本の修学旅行にあたる国際教育旅行で、台湾から国立屏ピン北ペイ高級中学の高校生が訪日した。生徒と教師計21名が米屋観光センターを訪れ、どら焼づくりに挑戦。自分で焼いた生地に餡子やフルーツなどを好みでサンドし、オリジナルのどら焼を2個つくった。台湾ではテレビアニメでドラえもんが放映されており、どら焼は良く知られているという。
 今後も海外の観光客が和菓子づくりを体験できる施設として、米屋観光センターから日本文化の発信に努めていく。

どら焼づくりに挑戦

米屋観光センターで台湾高校生が菓子づくり体験

平成30年

コージェネレーションでエネルギー効率をアップ

第二工場コージェネレーション設備

 平成18年に第二工場で環境に優しいガスボイラーを導入したが、平成30年には環境面やエネルギー使用の効率化でさらにメリットの大きいコージェネレーション(熱電併給)システムを導入した。
 これは、天然ガスを燃料として発電し、その際に生じる廃熱も同時に回収してエネルギーを効率的に運用するシステムで、蒸気供給と併せて工場に供給している。

第二工場コージェネレーション設備

10年に一度の御開帳成田山開基1080年祭

成田山開基1080年祭御開帳開白大法会の御練り

成田山開基1080年祭稚児行列

 成田山開基1080年祭記念大開帳が、平成30年4月28日から5月28日まで開催された。
 それに先立ち、4月20日には市川海老蔵丈の御練りが行われた。なごみの米屋總本店前にくす玉を設置してお練りの一行を迎え、大勢の観客やメディア関係者が見守る前で市川海老蔵丈と勸玄君が一緒にくす玉を割ると、大きな拍手と歓声が響き渡った。

成田山開基1080年祭御開帳開白大法会の御練り

成田山開基1080年祭稚児行列

食品安全の国際認証「FSSC22000」取得、運用開始

FSSC登録証の授与式

 平成23年、食品テロ対策の強化を図るため、米国食品医薬品局(FDA)に関する法律が70年ぶりに改正された。米国に輸出する各国企業への積極的な査察も盛り込まれており、米屋も平成27年にFDA査察を受け入れた。この法改正も含め、地球レベルで食の安全規格を統一しようという動きが各国で加速している。
 米屋は、ISO9001(品質マネジメントシステム)取得で対応していたが、食の安全確保を盤石のものとするため、諸岡良和社長がFSSC22000(食品安全マネジメントシステム)導入を指示。平成29年1月に食品安全チームを編成して食品安全要求事項に取り組み、10月にシステムの本運用を開始。翌30年4月に第1段階審査、8月に第2段階審査を通過し、同年10月4日に第二工場にてFSSC22000の認証を取得した。工場内監査の際は、予告なしにライン作業者へのインタビューが行われ、食品安全への心構えや業務内容、管理体制についての適切な返答も得られ、充実した社員教育も高く評価された。

FSSC登録証の授与式

「なごみ」の創出へ向けさらなる挑戦

 創業以来受け継がれてきた経営理念は、いつの時代も揺るぎなく米屋を支えてきた。この先も、「安全安心」を大前提とした品質向上と顧客サービス強化を貫くことに変わりはない。
 2020年、東京オリンピック・パラリンピックの開催、成田空港の第3滑走路の増設決定、第2滑走路の延長など、将来に向かって社会状況や周辺環境が大きく変化し、またAIの発達により仕事の仕組みも変わりつつある。その中で食品産業には常に新鮮な発想が求められ、米屋も「なごみの文化の創造」へ向けて今後も挑戦し続けなければならない。

Column.米屋のテーマソング

米屋羊羹の歌

米屋羊羹の歌 楽譜 米屋羊羹の歌 歌詞
※音源テープの劣化により一部曲が欠けている部分がございます。

昭和34年に創業60周年を迎え、「米屋羊羹御愛用感謝特別セール」を行い、抽選で1名様に米屋羊羹1年分が当たるプレゼント企画などを行いました。
ラジオ東京(現TBSラジオ)では番組の「探偵だんちゃん」で「米屋羊羹の歌」を放送して盛り上がっていました。

米屋音頭

米屋音頭の歌 楽譜
米屋音頭の歌 歌詞
昭和42年の創業68周年の記念式典で「米屋本店社歌」と「米屋音頭」の発表を行いました。この年はモータリゼーションの発達による観光バス、自家用車のお客様が多くなり「米屋ドライブイン」をオープンするなど、時代変化に応じた政策を打ち出して会社も勢いに乗っているときに「米屋本店社歌」や「米屋音頭」を制作して社員の心にも明るく楽しい雰囲気が行き渡っていました。

ぴーなっつ最中テーマソング

ぴーなっつ最中テーマソング 歌詞
平成30年10月にぴーなっつ最中発売から20周年を迎え、ぴーなっつ最中のテーマソングや、PRビデオを作成して、ぴーちゃんほっこりドでかクッションが当たる「20周年プレゼントキャンペーン」を実施しました。
千葉テレビやbayfmラジオでもCMソングとして放送しました。